小さい頃、母の長期入院で仕方なしに夕食を作っていて、その当時の経験が台所に 立つことに抵抗がなくなった要因でしょうが、しかし、今でもあの頃の暗い経験は、つらい思い出として残っています。Nonsense!
今も、妻が偶に里帰りして、一人になると、外食で済ませてしまうし、それを考えると、妻と娘のために何かやってあげたいという気持ちが 私の原動力になっているようです。
仕事としての調理はプライドを持って、男性が厨房を支配したがるくせに、家庭の台所は男が入るものではないという、矛盾することを日本人男性は平気でやっております。なぜ逃げる?
子育てもすべて母親に任せきりで、子供に問題が生じると「子育ては女の仕事」と 父としての役目から逃避する男性がどんなに多いことか。私、英語の教員でして、外国人助手とよく授業もするのですが、その方々から、「日本では、なぜ参観日や入学式は母親ばかりなのか?」と聞かれ、返答に困ってしまいます。本当の理由をいうと 「Nonsense!ナンセンス(馬鹿げている)」と言われるのが分かっているので・・・
で、男性は女性よりきつい毎日かといえば、決してそうでもないと思うのです。少なくとも共働きで、共に社会に出て仕事に責任を持つ身なら、家庭でも協力体制を敷いて当たり前だと。(妻は県立病院で、臨床検査技師をやっています。帰宅時間 は私より遅いことがよくあります。)嫌々やるのでなく、相手を思いやって、自分たちが出来るだけ負担にならないような協力体制が自然に出来れば、それに勝るものはありません。妻からは「結婚前から手伝うとは言ってくれていたけど、正直なところ、まるっきりあてにしていなかった。」という、強烈な台詞を言われたことがあります。信用されてなかったと言うことですねえ。妻は家事の方が仕事より楽だと言いますが、仕事をやった後での家事は、とんでも なくきついものです。男性は家事はきついと知っているから、開き直って逃げているんだと、私は思います。(私も偶に逃げます)こんな父親になりたい
アメリカ文化も教えている手前、アメリカの本当にいいと思えるところは、自分も取り入れて実践してみようと言う気持ちがあるからですが、本当の理由は、家事や子育てに協力しないから、子供が思春期になると父親を避けることが多くなるのではな いか。家族のために仕事をすることはとても大変なことだが、それにかこつけて子育てから逃げていないか。父親の協力がほとんどないから、子供は母親だけに相談を持ちかけるようになり、母親は時として自分の価値基準だけで子供を溺愛したり、甘やかしすぎることになるのではないか。そう思ったからです。2人が協力して子供を育てることをせずに、子供が大きくなってから「話もしてくれない」と嘆く父親にはなりたくないのです。同僚からは「まめだねえ」と言われますが、この原動力はすべて愛する妻と娘が あってのもの。
私が結婚して夕食を頻繁に作るようになった理由はいくつかあります。
・共働きで、妻も帰宅が遅い。
・家事の手伝いで一番自分が抵抗なく手伝えるものだった。
・私が小学生時代、母の長期入院により、当時夕食担当をしていた時、料理作りが好きだと分かった。
・食べて貰う相手の好みや健康を考ることができ、メニューを楽しみながら考え、四苦八苦しながら作り、その結果相手が喜ぶ顔を見ることができ、とてもやりがいを感じる。
何年か先には娘と妻と3人で台所に立って料理をすることになるでしょう。紅光さんとも末永くおつきあい願えたらと思っています。
野菜のおいしさ
どの野菜もいい香りがしたことで、思い出したことですが.....三十路半ばの最近 になって、野菜がまずくなってきているのではと危惧しています。小さい頃から、何もつけずに生野菜をたらふく食べることが好きだったのですが、最近ドレッシングをつけないと食べられないくらいまずい野菜だらけのような気がします。そういった野菜は、確かにきれいに洗ってあり、サイズもそろっていてまっすぐで、傷も虫食いもありません。見てくれは確かに良いわけですが、自然の濃い色や香りが欠けていてま ずいものばかりのような気がします。健康のために野菜はいいと思いながら、まずいものを仕方なしに食べるというのは苦痛だし、農薬まみれでは体に絶対よいわけはないし、そもそも矛盾しています。「食」の環境
現在の「食」の環境は決してよいものではないと思います。野菜嫌いの子供達
野菜の含有栄養素も、昔と比較すると含有率が減ってきているようですが、野菜の味がまずくなってきていることと無関係ではないでしょう。それを考えると不安でもあります。生産性と利益を追求した結果、農薬まみれで十分実らないうちに出荷される野菜が増えてきてしまうのでしょうが、私たち消費する側にももちろん責任はあると思います。
一番肝心な、豊富な栄養を含む天然の安全な野菜よりも、見てくれだけがよい偽の野菜(漂白されたり熟れきっていないもの)を好んで購入していったから、平然と店頭に並ぶ今のような状態になったのではないかと思うのです。私の地元にも、「地物」で手のかけられた良質な野菜があります。しかし、口にすることは皆無です。大消費地に出荷され、高く販売されています。流通の悪循環とも言えるものではないでしょうか。
職業柄、感じることですが、私が子どもの頃に比べても野菜嫌いが増えてきています。飽食の時代を超えて
「嫌いなものは食べなくていい」という、しつけ上での是非を問うものもありますが、そういった問題とは別に、「まずくて食べたくない」という子どもが多くなっています。
成長の止まった大人と、育ち盛りの子どもとでは、食の重要さも違ってきます。激しい好き嫌いは精神発達上好ましいものではないし、本当の味を知らずにいることは、「食べること」で成り立っている「生活していく」上で、多大な(楽しみの) 損失であると思うのです。
最近どの学校にも栄養士さんがつくようになり、一昔前の、食べるだけの給食が様変わりしています。献立や味付けは格段に進歩しましたが、素材の方はお世辞にも良いものとは言えません。費用面での制約ももちろんあるのですが、素材を活かすというより、いろんな味付けで食べさせるといった感が強いのです。
大量消費もグルメブームも20世紀の遺物となり、流行に踊らされることなく、これからは、本物の食材で健康と食の楽しみを追求できるような食文化が確立されると いいなと思います。未来を築く子どもたちが美味しいものを安心して食べることので きるような21世紀になって欲しいものです。んー、かわいい!
毎日このようにこだわっていくことは、現実には不可能でしょう。しかし、それを 気に留めておくかどうかで随分普段の生活も変わってきます。飽食の時代に金に糸目を付けずに美食に走ることと、今のこの時代に良心的な生産者を捜してこだわることは違うと思います。自己満足に過ぎないでしょうが、自分の4ヶ月の愛娘には、贅沢ではなく安全で美 味しいものを味わうことの喜びを、知ってもらいたいし、繊細で優しい感覚を身につけてもらいたいと願っています。
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